どこで間違えた?

以前別記事内で、「アニメや漫画のセリフから人生訓や脱ひきこもりのきっかけを何度も得た」という話を書きました。 

(関連記事→アニメや漫画から得る人生訓) 


当該記事内のセリフのように、それ自体に特別な訓諭が含まれているわけでないものの、筆者に大きな問いを投げかけたものとして、漫画「ピンポン」に登場する佐久間学がいます。 

 佐久間が退部を覚悟で主人公の月本に試合を挑み、敗れるシーンで叫ぶ心の声

「一体何処で間違えた?」「一体何に躓いた?」

は、大学院で留年を繰り返しながらひきこもる筆者の自問自答と重なる部分が多く、心を何度も深く抉りました。 


 これは社会復帰がある程度完了したころにやっと気づけたのですが、結論から述べるならば、筆者も佐久間も、何処でも間違えていないし、何にも躓いていませんでした。 


 ひきこもりから脱出できた今だから分かることなのですが、筆者がひきこもり状態に陥ったのは必然であり、ひきこもるべくしてひきこもっていたのです。 

 確かに、筆者がひきこもりになる直接の引き金となったのは、精神疾患とハラスメントでした。 

(関連記事→ひきこもりになったきっかけ) 


しかし、その背景として筆者の家族との関係や生育歴、人格における先天的な部分等があり、さらに精神疾患とアカハラ以外にも生きづらさにつながる諸々の因子が複合的に絡み合っていました。 


筆者が上記の佐久間のセリフを反芻していたときは、具体的には「研究室選びを間違ったか?」とか「研究計画の立て方がまずかったか?」とか、そういった【間違い探し】【犯人捜し】をしていました。 


しかし、そういった個々の選択によって、多少ひきこもりになるタイミングが早まったり先延ばしされたかもしれませんが、当時の筆者はそういったことに関わらず、根本的に「ひきこもりへの道」を歩んでおり、遅かれ早かれひきこもることは避けられなかったのだと思います。 


研究環境に恵まれていても、研究テーマや手法の選択がもっと的確だったとしても、あるいは就職活動まで順調だったとしても。 

当時のメンタリティのままでは、学生時代でなくても、社会に出てからでも、必ずどこかでひきこもりになったと思います。 

佐久間も同じで、卓球は先天的な瞬発力や動体視力といった、トレーニングでは超えられない才能に多くを依拠する競技であり、佐久間が卓球に関わる全ての最善を尽くし、それが奏功したところで、月本に勝つことはできなかったのです。 


ただ、ひきこもりになった筆者も、月本に敗れて退部になった佐久間も、その挫折は「結末」ではありませんでした。 


佐久間は卓球そのものをやめてしまったものの、卓球以外のオルタナティブな人生を歩み始めたことが、その後の展開の中で垣間見ることができます。 

筆者も、長いひきこもり期間を過ごすことにはなりましたが、いまはやりがいのある仕事と家族に恵まれて、ひきこもらない人生を歩めています。 


「何が間違いだったか?」という犯人捜しは、ひきこもり脱却の過程において、あまり意味がありません。 

犯人捜しの過程を深く追求しても、そこで見つかる個々のエピソードは「きっかけ」や「引き金」にすぎません。 

ひきこもりにつながるのは、もっと大きな背景因子や環境要因です。 

筆者も過去にいろいろな試練やクライシスがあり、その都度いろいろな選択肢もあったのだと思うのですが、それ以前に当時の筆者の人生そのものの大筋が、ひきこもりに向かっていたのだと思います。

ひきこもることを回避することは、どうやっても無理だったのだろうな、と今は感じています。 


それよりも、「ひきこもりから脱するために、いま何が必要か?」「自分はいま何からはじめられるか?」「自分の手元にはいま何が残されているか?」といった、前に進むための具体的な検討のほうが、ずっと意味があると思います。 


筆者を含めた当事者の人生において、ひきこもることは不可避の沼かもしれません。 

しかし、それは結末ではなく、時間をかければ踏み越えることができる沼であり、いずれ「過去の出来事」にも変えることができるのです。

帰ってきたひきこもり

不登校・留年・中退・長期ひきこもりを経て、35歳で準公務員に受かり、二児の父になったはなし。