以前、精神科医の斉藤環さんの講演会で、「正論ではひきこもりは解決しない」というお話を伺いました。
まったくその通りだと思います。
筆者の社会参加・社会復帰も、正論を捨ててこそ成し遂げることができたものだと確信して止みません。
広辞苑によれば、正論とは「道理にかなった議論」となっています。
倫理・規範・道徳に照らせば正しいロジック、ということです。
あくまで「王道」や「正攻法」という立ち位置の論法ではありますが、絶対的に正しい、というものではありません。
標準的なだけです。
ちなみに、上記の広辞苑では、「正論を吐く」という用例が紹介されており、必ずしも肯定的なニュアンスだけでは紹介されない言葉のようでもあります。
筆者としては、その正論から是非とも距離をおいて、できれば捨て去って、脱ひきこもりを目指していただきたいのです。
なぜならば、正論による論法はすべての人に等しく適切なわけではなく、特にひきこもり状態の人には適さない論法となりうるパターンが多いからです。
「標準的な人が、標準的な状況で、正攻法で行うとするならば、こうだ」というのが、正論です。
たったそれだけのシチュエーションなのですが、私たち日本人は均質志向であるため、標準的であることを正義と感じがちであり、従って正論も正義だと思いがちです。
(関連記事→日本社会と学校教育)
ひきこもり状態は到底、標準的とは言い難い状況ですが、それでもなお私たちは正論を押し付けられがちであり、自ら正論に追従しがちです。
極端な格差社会となったこの日本にあっても、9割の人は「自分は中流だ」と答えるという調査結果があるそうですが、それにも通じるものがあるように思います。
なお、正論とよく似た言葉に「正道」というものがあります。
こちらも意味としてはおおむね「正攻法」等に近く、定石を踏まえながら正規ルートで解決を目指すもので、もともとは仏教の言葉です。
そして、正道の対義語として「邪道」というものがあり、原義としては仏教の教えや決まりを守らないという意味です。
筆者としてはこの邪道による脱ひきこもりルートの模索こそをお勧めしたいです。
邪道と言っても、もちろん犯罪行為や人を傷つける方法を推奨するものではなく、正規ルートを外れたオルタナティブなルートを志向するという意味です。
地図には乗っていない「けもの道」や「抜け穴」のようなところを通過して解決を目指すことを選択肢に入れておくことは、非常に重要なのです。
現在、筆者は官公庁職員にありがちな硬さからある程度フリーに物事を発想し、仕事で実践できていると自負していますが、それはひきこもり経験に由来する点が多いです。
ひきこもりだった経験そのものというより、重症のひきこもりから脱却したときに経験し、体得してきた「けもの道」を使ったアプローチのおかげだと思います。
すっかりけもの道にお馴染みになり、けもの道ユーザーとして、官公庁の現場であえて正論的でない業務実践に努めています。
ただ、邪道を経由して解決を指向することは、多くの場合、当事者の親には非常に受けが悪いので、注意が必要です。
親は一般に、正論に基づいた努力の遵守を要求しがちです。
「邪道に走らず、正道を守り、努力を続けていくことが、最も低リスクかつ早道である」と妄信しているのです。
彼らの人生あるいは時代ではそうであったかもしれませんが、すべてがそうとは限りません。
こちとら人生の袋小路から脱却できるかどうかの瀬戸際なのです。
人生の袋小路から脱出するには、人生のけもの道を通ることも必要なのです。
ちなみに、筆者の脱ひきこもりの過程においても、結婚直後に正規職員の仕事を退職したり、第一子誕生のころに非正規雇用だったり、正論とは相容れない状況が散見されます。
しかし、それらの局面が正論的でないことにはそれぞれ意味があり、正論ではない判断をしたことは、後に奏功しています。
少なくともひきこもり脱出の過程においては、必ずしも親世代の言う【正社員就職→結婚→自己実現】というルート・順序が正しいというわけではないのです。
もっと言えば、かつての筆者自身が【復学→研究再開→大学院修了→新卒就職】という正論のルート・順序にとらわれ過ぎていたために、ひきこもり脱出が随分遅くなってしまいました。
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