ひきこもりになったきっかけ

 筆者が不登校気味になり、ひきこもり生活に入ったのには一応きっかけがありました。

ただ、これはあくまできっかけであり、下記の経緯のずっと前からの生育歴の中で、いずれ精神病になり、不登校・ひきこもりになることは概ね運命付けられていたのだと思います。 


なお、この記事は事実の叙述になっているので、漫然としていて長いですが、こんなふうに始まる不登校・ひきこもりもあるんだなと思っていただければ幸いです。  


高校のころから妄想と不安に苛まれてきましたが、大学4年ごろからそれらに加えて鬱状態・希死念慮も呈するようになっていきました。  

大学院入試には何とか合格したものの、進学後まともに研究生活が送れるか、もはや際どい状態でした。  


ところが進学してみると、新しい研究テーマは存外に面白く、なぜだか急に頑張れるようになりました。  

大学時代は朝起きることも苦労する日があったのに、大学院進学後は早朝から深夜までパワフルに活動でき、いままで枯れていた興味がいろいろなものに向きました。  

留学生と流暢に話せるほど英語も上達し、英語の専門書や論文も乱読しました。  


もはや従前の病状を抑え込むことはいとも容易で、今後苛まれることはないのでは、とすら思いました。 


そんな矢先、ある朝から急に身体がだるくなり、38℃台の熱が出るようになりました。  

最初は風邪かと思い、数日休んだのですが、熱が全く下がらず、身体も相変わらずしんどいので、内科に掛かってみたところ、どこも悪いところはありませんでした。  

ただ、熱は続くので結局「不明熱」ということになり、熱が下がるまで安静にすることになったのですが、結局この熱は半年下がりませんでした。 


いったん、実家に戻って静養することになりました。 

熱と軽いだるさが続く以外は痛くも痒くもなかったので、最初は根を詰めていた研究生活からいっとき解放されて、比較的気軽に過ごしていました。  

しかし、2ヶ月、3ヶ月と熱が下がらない日々が続くうちに、研究が進捗していないことが不安になってきました。  

また、身体を休めることで、緊張の糸が切れてしまったのか、これまで堪えてきた不安・恐怖・被害妄想・鬱症状が噴出し始めていました。 

自分は本当に2年で修了できるのだろうか?という不安に苛まれながらも、熱が下がらないことを口実にだらだらと実家で無為に過ごし続けました。 


半年後、熱が下がったので、研究を再開することになりました。  

実家から電車とバスで5時間かけて大学院のあるX市まで出てきて、再び一人暮らしを始めました。  

しかし、いざ大学院に復帰してみると、研究室のメンバーは挨拶もそこそこに、いつも通り忙しく動き回っており、研究室自体の活動も物凄い速さで回っていて、病み上がりの自分には取り付く島がありませんでした。 


教員・先輩・同期の全員が常に多忙で、すっかり圧倒されてしまい、自分が何から始めて良いか、いま研究はどういった展開なのか、誰にも尋ねることができませんでした。  

気が引けて聞くことができなかっただけかもしれませんが、もしかしたら勇気を出して聞いてみても、「自分で考えて判断しろ」という答えしか帰って来なかったのかもしれません。 


何をして良いのかも分からないので、とりあえず自分が休んでいる間に発表された新しめの論文を読解することからはじめました。 

自分も多忙な研究についていけていたころは、屋外の実験場に朝6時集合ということも多かったのですが、この頃には朝早起きすることもできなくなっており、10時ころになんとか研究室にたどり着いて、数時間論文を読むという日々が始まりました。  


ただ、この頃は元々抱きがちだった他者への妄想的な恐怖や、「邪魔だと思われている」という被害妄想、「自分は失敗する、うまくやり遂げられない」という不全感、その不全感を払拭しようと闇雲な努力を促す強迫、そして起き上がることすら困難なほどの鬱症状に巻き付かれ、身動きできなくなってきており、渾身の力で研究室へ出てきて数時間座っているだけで精一杯でした。 


そこから次第に五月雨登校に陥り、研究室内ではいるのかいないのか分からない、微妙な存在になっていきました。 


五月雨で登校して、ゼミナールや座学には出ることもできることがありましたが、研究室全体の研究スケジュールに全くついていけておらず、また実験装置等のスケジュールも常に過密で、翌朝すら確実に登校できるか分からない状況では自分の研究計画立て直しや実験再開にはなかなか至れませんでした。 

復活への手掛かりがつかめないまま五月雨登校は数ヶ月続き、その間病状悪化により数週間欠席することもありました。  


いまになって思えば、日常生活がまともに送れない病状で、物凄く高度なことをやり遂げようとして、第一歩も踏み出せないまま跳ね返され続けていたのでした。  

それはまるで、エンジンの不調により加速が足りず、本線に入れずに合流路で立往生しているポンコツの車のようでした。  

かつて自分もそうであった、みんなが研究に邁進しているペースに、どうしても加速することができないのです。  


そして、また数週間休んだあと何とか登校したある日、研究室内は棚やデスクが配置換えされており、筆者の席はなくなって私物は段ボールに詰められていました。  

国際的な共同研究も盛んな研究室だったため、訪問研究員等の去来も頻繁で、おそらく一時的に席が足りなくなり、いるのかいないのか分からない筆者の席は優先度が低かったのだと思います。  


いまなら悪質なアカハラに該当する事案ですが、当時はアカハラという言葉もなく、筆者も「研究室の戦力になれない自分が悪い」と納得してしまって、甘んじてこの事態を受け入れました。 


以降は自分のデスクも無く、研究室の片隅で丸イスに座り、論文や専門書を手に持って読みながら過ごすようになりましたが、程なくしてその気力も擦り切れ、完全にアパートにひきこもるようになりました。

帰ってきたひきこもり

不登校・留年・中退・長期ひきこもりを経て、35歳で準公務員に受かり、二児の父になったはなし。