さしたる理由も無く生きる

「生きる意味」について悩んでいる方は当事者にも特に多いのではないかと思います。

筆者はこのテーマについてはひときわ悩みました。


このままひきこもり状態を続けていて、誰かの役に立つことも出来ずにいずれ朽ち果てていくのか?
人の価値は何で決まるのか?自分は生きていてもいいのか?


悩みに突き動かされて働いてみたり、それで疲れてまたひきこもったりもしました。


そして、悩みを持ち越しながらひきこもりから脱してしばらくしたころ、ある結論に至りました。

それは、「人間が生きていくうえで、意味や理由は必要ない」ということでした。


同時にもうひとつの結論が出ました。

「人間はさしたる理由も無く生きていても良い。さしたる理由も無く生きる権利こそが、人権・生存権なのだ」ということでした。


人間は測る尺度によって如何様にも評価できます。

お金をたくさん稼ぐ人、社会に良い影響を及ぼすことができる人、他の人がやりたがらないことが苦にならない人。

しかし、誰彼から評価されるから、あるいはお金があるから生きる価値があるというものではなく、誰だって生きていいはずです。


様々な尺度において、価値のある人はいます。しかし、一定の尺度において価値が薄いからといって、無価値とは断じられませんし、すべての価値観を見通せる人も存在しません。


お金があったり仕事ができたりすることなど、この世に存在する無数の軸の中の一本にしかすぎません。


価値を見出せる軸が見当たらないとしても、やはりそれを理由に死を強いることなどできません。


生きていることは単なる現象であり、何かを条件として成り立つものではありません。


これはいかなる国家・社会でも通用するとは限らないかもしれません。

例えば優生学的な思想が流布した社会や夜警国家では、やはりその社会に役に立たない人物は排除され、抹殺されるでしょう。

こうした例は人類史上かつてはごく当たり前のことであり、本邦においても間引きや姥捨といった、負担となりうる人物の排除が行われていました。


しかし、成熟した社会においては、こういったことは許されません。

近代国家・近代社会はその構成員の互いの生存を保障し合おうと努めてきました。そしてこれからもそうあるべきです。


ひきこもり当事者の中には真面目で自分に厳しく、「こんな自分は生きている価値がない」と過剰に自分を追い詰める人がいます。


特に筆者はまだひきこもり状態が重篤だったころ、「自分以外の多くの精神疾患患者は、働けなくても生きている権利や価値がある。だが、自分だけはダメだ」などと矛盾したことを強く思っていました。

これは単に思想的な問題ではなく、病気の影響による自罰性が強かったのもあるのですが、「生きていることには意味や理由が必要だ」という前提を設けてしまっていたという点も悪かったと思います。


もちろん、生きる上で成し遂げることや及ぼす影響には意味や価値があります。

しかし、それらが全くなかったとしても、やはり誰も生きることを妨げることはできないのです。


そして筆者はひきこもり状態を脱して就職したいまでも、やはりこれと言ってさしたる理由もなく毎日生きています。

帰ってきたひきこもり

不登校・留年・中退・長期ひきこもりを経て、35歳で準公務員に受かり、二児の父になったはなし。