自責してはいけない

現職で親しくなった職員の方に、「実は以前、長いことひきこもっていたんですよ」と言ったところ、「そんな素振りは見せないのに、本当はずいぶん苦労されてきたんですね」と言われたことがあります。

筆者の中ではひきこもりとは「何の苦労もなくダラダラと生きている」というそしりを免れないものと固く信じてきたので、ひきこもること=苦労だと思ってくれる人が、しかも大人の仕事の社会の中に存在したということが衝撃でした。


ただし、ひきこもり状態だった頃、自分について「仕事も社会生活もせず寝てばかりいる」とは思っていましたが、それが楽だからそうしていたわけではなく、とても辛く感じていたのは事実です。

ただ、「仕事も苦労もしていないのにとても辛い」という状況は、誰かに理解してもらえるものではないと思っていました。


そして、心身の不調でひきこもっていること以上に、「自分は仕事も社会生活もできていないし、それを他人はサボっていると思っている」という思い込みが、筆者の心をいつも削っていました。


しかし、筆者の主観を軸に敢えて断言するなら、ひきこもり状態の人の苦しみは、一般的な社会人を上回ります。

筆者自身、いまは社会人として毎日仕事と子育てに追われていますが、その中でもひきこもり状態の頃を上回る苦しみを味わうことは滅多にありません。


あまつさえ、新卒からずっと社会人として大人の世界で戦ってだった人ですら、ひきこもりだった筆者について「ずいぶん苦労してきた」と言うくらいです。


ひきこもり状態で身動きができずにいると「こんな自分は役に立っていない、負の存在だ」「自分は社会参加している人と比べると甘えている」という自責や卑下に囚われてしまうことが往々にしてありますが、少なくとも「味わっている苦しみ」という切り口で言えば、ひきこもり当事者は社会人以上に、十分に戦っていると言えます。


ひきこもり状態に苦しむ当事者が自らを「甘えている」「サボっている」などと卑下することは、無意味で無益かつ、誤っているのです。

帰ってきたひきこもり

不登校・留年・中退・長期ひきこもりを経て、35歳で準公務員に受かり、二児の父になったはなし。