日本の学校教育の中で息苦しさを感じることが多いのは、その根底に明治期の教育理論が生き続けているからだと考えています。
その教育理論のゴールに設定されているのは、富国強兵です。
資源が乏しく体格的にも劣る日本人が優れた成果を生み出すためには、個々の力を伸ばすより、命令通り忠実に動く、標準的な能力の人間が大量にいる方が効率が良いのです。
こうして大量生産された「没個性で忠良な、標準的な人々」は、産業発展と軍事力増強に目論見どおり貢献し、明治維新から僅かの期間に日本を列強入りさせ、その後も国を発展させました。
西欧列強諸国に征服されないようにするためには、当時はこの方法しかなかったのだと思います。
この文脈において日本の学校教育は現在も管理・調教を本質として、その傍ら勉強も教えている状態が続いていると言えます。
管理体制はそのままで、冠が「国のため・天皇陛下のため」から、「みんなのため・社会のため」にすげ替えられたに過ぎません。
児童・生徒を枠に押し込み、はみ出した個性や才能をトリミングして標準化する機能が、日本の学校教育の本質です。
そして、日本における「社会」とは、学校教育による管理・調教と標準化に順応できた人たちの集合体なのです。
当然これに馴染めない児童・生徒は出てきますし、それがさらに強化される社会人の段階で馴染めなくなる人もいます。
しかし、そういった人々は落伍者として排除され、再参入は拒まれます。
没個性で忠良で、全体のペースに調和して追従できることが「学校で習う正義」であるため、落伍者は相対的に悪であり、突き詰めると排除することは良いことになってしまうのです。
これが恐らく、日本社会の正体なのです。
親がひきこもり当事者に対して「普通になってほしい」と願い、しつこく「普通」の生活を迫るのもこのためです。
親たちは標準化の洗礼を受けてそれに順応し、標準化された社会の中でうまく生きてきたので、我が子が標準的でない様相を示すと不安がり、悪と断じ、標準化に帰依するよう迫るのです。
過度に標準化された社会は、それを息苦しいと思う者にとってはとても生きづらいものです。
さりとて、日本社会・日本経済は終焉を迎えつつあるとはいえ、過度な標準化を大前提として成り立っているので、にわかにこれを破壊したり、脱標準化したりすることはできません。
ちなみに筆者はというと、自分自身は標準化に追従できない落伍者で、社会は過度に標準化されたいびつなもの、と両者をなんとなくメタ化して捉え、「落伍者ながら標準化社会に参入するフリ」をして擬態して過ごしています。
しかし、それだけだと疲れ果ててしまうので、できる限り本来の自分をさらけ出せる場所を探しては訪れ、そこに浸るようにしています。
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