何もないはすべてある

インドのある有名なスピリチュアルリーダー(と書いた時点ですでに多くの方に察しがつくかと思います)が、テレビのインタビューに答えていた言葉で、案外示唆に富んでいたものがあり、いまも心の片隅に置くようにしています。 


一応断っておくと、当該スピリチュアルリーダーの手品まがいな手法には多くの疑義があり、筆者も彼を信奉しているわけではまったくないのですが、彼が発した言葉自体には重要な示唆が込められているので、引用しているところです。 


そのスピリチュアルリーダーは手のひらをテレビカメラに向け、「この手のひらを見なさい。ここには何もない。何もないということは、すべてあるということだ。」と述べました。 


当時の筆者は「手品の演出の一環?」とだけ思いましたが、のちに何となく、この言葉をヒントにして重要なことに気付くことができました。 


一つのものを手で掴んでいると、他にものを持つことはできません。 


それが重要なものであれば、引き続き掴んでいればいいのですが、人はときに、すでに自分にとって役目を終えたものや、無用の長物をも握りしめてしまい、手放す勇気が湧かないまま長らく自由に手を使えなくなることがあります。 


手のひらを空っぽにするということは、単なる喪失ではなく、次のものを掴むチャンスを得ることでもあります。 


つまり、「何もないということはすべてあるということだ」という言葉は、「空っぽの手はすべてのものを掴む可能性を秘めている」という意味なのだと思います。 


筆者がこれを痛感したのは、失恋したときと、退学したときです。 


長い間執着した異性が自分の元を去ってしまったり、自分とは縁がなく、他人と結ばれてしまったりしたとき、狂おしい嫉妬や悲嘆に囚われて何も手につかなくなることがあります。 


特に筆者は思い込みが激しいところがあるので、こういったときの痛みは激烈です。 


しかし、ひととおり悲嘆しまくったあとに、ふと「あれ?俺はもう、あの女性以外なら、誰と恋愛をしてもいいんだ....」と気づくタイミングがあり、そのたびに持ち直すことができました。 


同様のことは、かつてある女性お笑い芸人が、持ちネタの中でも言及しています(35億!)。 


また、別記の通り筆者は関東の私立大学を卒業後、念願だった地方有名大学の大学院へ進学したのですが、そこでの研究生活の中で不登校・ひきこもり状態に陥ってしまいました。 


留年・休学・復学を繰り返しながらも大学院にしがみつき、もはやとっくに「新卒」という年齢でもなくなってしまっていて、研究を続ける具体的なメリットやモチベーションも見失っているにも関わらず、取り憑かれたように妄執していました。 


それだけ、その大学院と研究テーマが好きで、誇りも持っていました。 


ただ、これは学則上やむを得ない流れで私個人が勇気を出して学籍を手放したわけではありませんが、在学可能な期間を超過したため退学しました。 


しかし、それ以上大学院に妄執できなくなったことで、就労や就労のための勉強等の具体的な行動がとれるようになりました。 


それが、現在につながっています。 


研究者・エンジニア志望だった筆者にとっての「退学」という致命的な喪失・挫折が、すべてのスタートとなり、巨石のように凝り固まっていた人生がゴロゴロとゆっくり前に転がり始めたのです。 


長期不登校・休学中は解決すべき「ひとつめの課題」が、復学や修了といった、すぐには解決困難なラージステップであったため、それ以外の複数のスモールステップにアプローチすることがなかなかできなかったのですが、退学によってそもそも復学も修了もできなくなったので、やっと個々のスモールステップ達と向き合うことができるようになったのです。 


実現が困難になってきた目標は、時に道を塞いでしまいます。 価値はあるが過大な目標を握りしめたまま手が空かないと、その間は身近で実現可能な小さな目標をいつまでも達成することができません。 


6年間拘泥し続けた「大学院修了」という至上命題と、その絶対条件である「学籍」を手放したことで、いったん手のひらは空っぽになってしまいましたが、その後小さな達成を少しずつ手に入れ、いまは定職・家族・僅かながらの財産等を手に入れるに至りました。 


確かに、何もないということは、すべてあるということなのです。


帰ってきたひきこもり

不登校・留年・中退・長期ひきこもりを経て、35歳で準公務員に受かり、二児の父になったはなし。