筆者は、高校生の頃に他人の目が自分を馬鹿にしているようで気になるようになり、同時に正体不明の恐怖と不安に苛まれるようになりました。
近居でずっと共働きの両親の代わりだった、大好きな祖母の体調が思わしくなかったこと、同時に進学のこと、恋愛のこと等の悩みがあったこと、さらには家庭内で長年抱えていた不和のこと等がいよいよ自分の中で整頓できなくなり、溢流してしまったことが発病の原因だったように思います。
当初の診断名は何だったのか知らされませんでしたが、受験が近づいていたため主治医からは「いったん対症療法に徹するので、根治は進学先の街で」と提案され、強めの抗不安薬でしばらく凌ぐことになりました。
ただ、出された抗不安薬はあまり奏功せず、不安と恐怖に対応するため、筆者は自分でもよくわからないまじないのような行為を頻繁に繰り返すようになっていきました。
持っていたキーホルダーのお守りや土産物の木彫像等に長時間祈りを捧げるようになり、さらには朝自宅から出る足を右足にするか左足にするかといった些細なことに真剣に悩むようになり、日常生活の制限が徐々に大きくなっていきました。
塾に通う電車の中では、乗客たちの目が筆者のことを「気持ち悪い」「バカそうなヤツだ」と思っているように思えて、どこを見て良いかわからなくなり、発狂しそうな気持ちを必死でこらえて過ごしました。
高校は昼休みの外出・外食等が割と自由なユルい学校だったので、フラっと昼休みに姿をくらまして、精神科の予約を取りに行っていました。
そして、放課後に通院します。
今ほど精神的なストレスやうつ病等の認知が進んでいない時代で、筆者にとって精神科通院は学校の仲間には絶対にバレてはいけない秘密でした。
心臓病と認知症が悪化した祖母はやがて亡くなり、その直後筆者は関東の私大に進学することになりました。
すでに精神症状はかなり悪化し、ギリギリの合格と進学でしたが、これ以上実家の家族と暮らすことはできない精神状態だったため、上京による一人暮らしに首の皮一枚で救われました。
精神科は関東の大きな病院に転院しました。また、まじないのような強迫的な行為も止まらずむしろ悪化し、祈りに必要なおまもりや木像などは携えて上京することにしました。
上京後は勉強と部活に精を出す日々となり、仲間もたくさんできました。
しかし、いったん少し落ち着いた症状もすぐに悪化していきました。
かねてから熱望していた分野に進学したため、講義は毎日どれも非常に楽しみでした。
「こんな興味深い講義をサボるなんて、気が知れない」と毎日思いながら、勉強していました。
しかし、私大の広い講堂での講義は地獄でした。
私大の階段教室の後方には不真面目な学生が陣取り、ヒソヒソ話をしたり談笑したりしているのですが、それらがすべて、筆者への嘲笑に聞こえるのです。
あまりの辛さに、筆者はいつも眠たいフリをして左手で目の前を覆い、手元のノートと黒板だけが見えるように視界を遮って講義を聞いていました。
部活は武道系でかなり厳しく、仲間たちとはともに笑い、ともに泣き、傍目からみればものすごく濃くて熱い日々を過ごしました。
しかしその実、筆者は仲間たちと苦楽を分かち合いながらも、精神症状のこと、通院のこと、まじないのような行為のことが仲間たちにバレないよう、必死でした。
なお、このころ正式には告知されず、後に判明することになるのですが、当時の診断名は統合失調症でした。
筆者は専攻分野の学問がとことん好きで、将来はエンジニアか研究者になりたいと思っていたため、関東の私大卒業後は地方の国立大学の大学院に行きたいと考えていました。
しかし、部活・委員会活動・卒業研究・院試対策を苛烈な精神症状の中でこなしていくうちに、上述の対人被害妄想・強迫的な行為に加え、うつ状態や希死念慮も強く出てくるようになりました。
そのうち、徐々に将来のことを考える余裕もなくなり、なぜか「修論を書いたら死のう!」と思うようになっていきました。
夜な夜な実験室内でフェノール(腐食性の劇物・筆者は実験中に原液が1滴手の甲にかかり、そこが焦げた)を一気飲みしたい衝動に駆られながらも、「修論を書けば死ねる」と自分に言い聞かせながら服毒自殺を思いとどまる日々でした。
そして、晴れて地方国立大学の院生となり、そこで不登校に陥り、永い永いひきこもり状態に突入したのでした。
0コメント