人生のランダムテーブルを変える

人生をテレビゲームやボードゲームになぞらえて考えることは、多くの方に経験があると思います。

もちろんそれだけで人生を測り知ることはできませんし、ゲームになぞらえることに固執すれば、人生は無理ゲーだとかクソゲーだとか、偏狭な考察に到達しかねません。


しかし、見慣れたゲームシステムの枠に人生の発生事象等を落とし込んで考えることで、発生した理由や背後関係、その後に発生しうる副次的な事象への展望を具体的に考えたり、把握したりしやすくなることも事実です。

私もよくやります。


ゲームシステムにもよりますが、殊に古典的なボードゲームや歴史ゲーム等におけるイベント発生は、あらかじめ用意されたアルゴリズムに、ゲーム中で立てたり折ったりしたフラグと、偶然を模した乱数等を乗じて得られます。

イベント発生の鍵のひとつである乱数は、特に古典的なゲームの場合、都度に発生する乱数ではなく、ランダムテーブルと呼ばれる乱数のかたまりとして組み込まれています。

ちなみに、ランダムテーブルがゲーム開始時に1種類に固定されるタイプのゲームだと、途中でリセットしても、同じタイミングで同じことが起こります。


ところで、長期にわたり重度のひきこもり状態だった私がいまこうして社会生活に戻れているのは、私が頑張ったからではありません。

個人の努力が人生に与えられる影響は極めて僅少です。

また、優れたり秀でたりしていたからでもありません。

そんな人はひきこもらないし、仮にひきこもっても自らの才覚によって容易に這い出してくるでしょう。


私がいまこうして生きているのは、他者からの助力と様々な偶然とが絡み合った産物です。

他者からの助力と言っても、ひとりのスーパーマンに一から十まで助けられた訳ではありません。

その代わり、恩人と言える人は何人も居て、枚挙に暇がありません。

そして偶然と書きましたが、これも得難い幸運を数万分の一の確率で手にしたわけではないように思います。


言うなれば、一発のスーパーレアを引き当てたのではなく、色んなものと出会った中で、その中にややレアなものや重要なものも含まれていて、それらを糾合するとスーパーレアを引くより多くの実りがあった、といった感じでした。


ひきこもり状態で生活していると、ランダムテーブルの幅が極端に狭くなりがちです。

どんなアルゴリズムでも、あるいはそれまでどんなに多くのフラグを立てていても、変数が0と1の二択しかなければ、同じことが起こるばかりで、前に進めません。

こんなとき、人は焦ります。焦りと裏腹に結果が出ず、さらに苦労を伴う努力によって状況を打開しようと藻掻くいたり、無気力になってしまったりします。


また、元々射幸心が高くない人でも、なぜか「一発逆転に賭けるしかない」と思うようになり、高額の投資をしたり、極端な難関資格取得を目指したりします。

しかし、過剰な努力は消耗を招きますし、高額投資や難関資格取得が必ずしも奏功するとは限りません。


私もいろいろ復帰(当時は復学)に向けて努力し、さらに燃え尽きて数年間無気力に過ごしましたが、今になって考えると、必要だったのは闇雲な努力ではありませんでした。


必要なのは、多くの人や団体、概念との出会いです。

それらは、ランダムテーブルを変えます。


人・団体・概念との個々の出会い自体は、そこまで大きな影響をもたらさないかもしれません。

しかし、自分と異なる考え方をする人物に触れること、知らなかったことを知ることは、その都度、確実に人生を少しずつ変えます。

住居や家族といった部分に全く変化が起こらなくても、自分と自分の交友に若干の変化が生じれば、次に起こるイベントも必然的に変わってきます。


こうして従前のランダムテーブルには無かった変数を引く機会が増えることで、人生が前に転がりやすくなります。


筆者個人の具体的な経験としては、居場所活動に出かけたことと、そこにいる人たちとの交流が、私の生活と考え方に変化を与え、今の生活に至る直接的なきっかけだったと、今でも思っています。

一人と会って気が合わなくても、ひとつの団体と会って自分と合わなくても、ひとつのイベントに行ってつまらないと感じても、無理のない範囲でまた次の人と会ったり、団体と関わったりしようとしてみてください。

勉強の努力が重要な局面もありますが、【機会獲得】に努力を振り向けた方が、予後が良く治りが早かったです。

帰ってきたひきこもり

不登校・留年・中退・長期ひきこもりを経て、35歳で準公務員に受かり、二児の父になったはなし。