筆者は、長らく精神分析による治療を受けてきました。
その中で、一番自分に効いている、自分を改善してくれていると感じていることについて少し触れておこうとおもいます。
なお、治療の経過や詳細はあらためて別記します。
また、本稿は「精神分析を受ければひきこもりや精神疾患が直る!」という記事ではありませんが、森田療法であれ、アドラー心理学であれ、他のどういった精神療法を受けても、たどり着く場所はおおむね同じなのかもしれません。
精神分析の治療は転居等の都合で2回医師と臨床心理士が変わってしまっているのですが、一貫して続けているのは「自分が無意識に身に纏っている欺瞞を脱がしていく作業」です。
私たちは心の居心地の悪さから身を守るために、無意識に自分に対して嘘をついたり、ごまかしたりすることがあります。
具体的な作り話としての嘘を吐くというより、勝手なバイアス等を作って、自分の認知を真実から逸らしてしまうようなパターンが多いように思います。
真実を直視して傷つく可能性がある場合や、それまでの自分の生き方・感じ方と整合性が取れない場合、それを回避して精神を守るのです。
日常のちょっとした不快感でもそうですが、もっと深刻な、自分の存立を危うくするような展開・環境に対しては、どうしてもこういった反応が起こりがちです。
筆者は幼少期に暴力や強い否定、いじめを受けることが多く、そういった環境で生き延びるため、「そういった環境は悪いものではない、当然なもので、むしろ恵まれているのだ」という風に結論付けてしまう癖がついてしまい、無意識かつ巧妙に、自分自身を含む世界全体を激しく歪めてしまっていました。
小さい頃にただ生き延びるためだけであればそれで良かったのかもしれませんが、自分を取り巻く環境や人物はどんどん変わっていってしまうので、「かつて都合の良かった嘘・歪み」が、不要になった後もこびりつき、特に思春期以降はかえって「世界を不都合に歪める」ことになってしまいました。
例えば筆者は、「自分は愚かで不注意だから、人の2倍頑張って、やっと普通なのだ」という前提条件を通して生きる癖が強固に染み付いており、必要十分を超えた大過剰で無駄な努力をし続けたり、努力では解決不可能な事態を「努力不足」と断じてさらに頑張ったりすることがやめられませんでした。
精神分析のセッションの中でそれらをひとつずつ、「それは本当に真実なのか」「矛盾してはいないか」「現実と乖離しているのではないか」という観点を軸に見つめ、あばいていきました。
最初は、自分が真実だと妄信している観念を「ほら矛盾している、それは妄念だ!」と指弾されて引き剝がされる痛みに耐えられず、随分混乱したこともありました。
こういう治療というのは、侵襲性が高いのかもしれません。
数年治療を続けるうちに、自分が真実だと妄信している嘘をそぎ落とす作業に慣れてきて、痛みもそこまで感じなくなってきました。
また、自分でも、自分の中に巣食う嘘・欺瞞・歪みの類に嗅覚が効くようになってきました。
筆者の場合、病原となるものは主にこれらがこじれて絡まったモノだったので、日常から不必要に自分を責め立てるバイアス等が減り、治療を続けるにつれて生きづらさ・苦しみは少なくなりました。
そういったモノに絡め取られて身動きができなくなったり、何日も寝込んだりすることもなくなりました。
同時に、考え方・生き方が随分シンプルになりました。
ひきこもりを脱して忙しく働くようになったいまも、精神科と精神科に附属する心理相談室には通い続けており、その作業を続けています。
かつては自分に対する「馬鹿で怠惰でどうしようもない無能」という固定観念と、それに引っ張られないための「そんなことはない、自分は利口で殊勝で崇高だ!」という虚飾を両方ぐるぐる巻きにして生きていたように思います。
いまは「別に馬鹿でも利口でもない」ぐらいに思っており、その自意識を別段誇りたいとも守りたいとも捨てたいとも思わなくなりました。
ただ、自分に対して、かつてよりも「大事なものだ」とは思うようになりました。
ひきこもり当事者の方の中には精神療法に取り組んでいる方もいらっしゃるかと思いますが、上記の筆者の経験に「あるある!」と感じられた方は、病理の構造も筆者と似ているかもしれませんので、参考にしていただければ幸いです。
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